工藤 PC 俊作の、コンピュータ探偵日誌

Diary of a PC-detective by Kudo・PC・ shunnsaku.

さあ、冒険をはじめようじゃないか!

 パソコンとともに生まれてきたと言っていいくらいだ、俺はLinuxのリーナスと1つ違いなんだよ。

 10歳の時、スイッチマシン(8080A)の機械語マシン(はんだ付けで自作だ)で、LEDを使って、256bitのメモリで、スイッチ書き込みでプログラムを動かして、LEDの0,1の点滅で結果を得た。

 これが俺の初めのマシンだ!

 アセンブルはハンドアセンブル・・・紙テープですらないんだぜ。

 次は15歳の時、SharpのX1を持っている友達がいた。そこで、CP/M2.0とBDS-α Cコンパイラがコピーできたんだ。よろこんだね、Cが動かせる!。そこで、Z80マシンを1FDD(5.25’’FDD)で作った。これも半田付けだ。FDCの変調装置はまだ、抵抗とコンデンサーで組んであったんだ。(端末はMax Machineの改造だった)

 そこで、Cを学んだ。Lessを初めて、コンパイルした。感動した。

 これが私の初めての言語体験となった。

 Cは、高級アセンブラだ!そのころはコンパイル環境で変数サイズも変わっていた。いろいろなCを渡り歩いていった。

 そして、FDDのFormatのコマンドも自分で作らなければならなかった。そして、FDCの原始的なコマンドとフォーマット法をしった。そこで、FDDメディアのコピープロテクトのコピーを突破し、その特殊フォーマット再現した。初めてのハッキングだ。

 理解できるソフトをハックする。その楽しみを覚えた。

 高校を卒業するころ、

オブジェクト指向入門 (ASCII SOFTWARE SCIENCE Programming Paradigm) 単行本 – 1990/11/1

を買った。面白かった。食い入るように読んだ。でも、何か引っかかったんだ。何かか抜けてる。でも、こんなに楽しいことを、仕事にするなんて馬鹿らしいと思った。自分の好きなようにできないじゃないかと。

 そこから、Internet時代が来た、テレホーダイが来た、56Kbモデムがなって、ネットをした。フリーソフトにおぼれた。

 それと共に、私には中学からの夢があった、コンピューターを使えば。博物学みたいな化学の反応式は、量子力学でエミュレートできるはずだ。コンピュータのおもりをするのでない、自分が計算化学でコンピューターを使おうとおもった。

 大学はお金がないので、国立しか行けなかったでも、研究室の教授陣は京大工学部卒の福井謙一ノーベル化学賞)門下だしたいことができる!

 多いに学んだ、そうして、いかに福井謙一先生が驚くべき業績を上げたか、嫌というほどわかってしまった。

 私はその理論から生まれた分子軌道法をさらに高精度化して汎用な関数にするFULLCI法を使い、さらには時間発展因子としての位相を導入し、限られた時間でできる分子の電子密度の時間発展を応用したかった。

 水素3分子、これだけの計算で、それなりの計算コストがかかる。トポロジックな分子のおき方などで理論計算をとも思ったが、ここまであまりに計算コストがかかるのであればと困惑した。

 初めは研修者を考え博士前期課程に行ったが、後期課程での活躍は無理だと思った。コンピューターがこんなにも非力だったことに、落胆したのかもしれない。

 そして、就職氷河期がきた。修士号の初めの仕事は、道路工事だった・・・分けある人たちと、わけある仕事をした。30になればもうつぶしが効かない、ある省庁に入った(国家一種情報は蹴った(仕事にしたく無いから))あくまで労働省だ・・・コンピューターでは趣味を貫き通したかった。

さて、

 ネットは、メタル回線になった。写真の趣味でとったファイルがみんなに配るにはブログに載せられない。写真をそのままの大きさで乗せるために、Webサーバを作った、始めはWindowsで、つぎはUBUNTUDebianLinux)でだ。DDNSが無料になってきた。

 DVDはもう当たり前だったが、容量は増えるばかり、250GBのHDDが1万円の時、簡易的なファイルサーバーを作ってみた(USB-IDE変換器ので初めだった)。UBUNTUでだ。そのころ3TBもあれば十分だと思った。

 光回線がきた、P2P黎明期がきた、それに乗った(違法でなかったので)ファイルサーバーはすぐにいっぱいになった。

 P2Pがおわり、DVDを借りてきてリッピングしてた(違法でなかった頃だ)、ファイルサーバは10TBを超えた。

 そのあたりから、派遣法施工・・・オブジェクト指向裏目に出て、IT土方が生まれた。そうこのことだったんだ、何かおかしいと思っていたのはーオブジェクトと言う抽象化をしたら、ノイマン型コンピュータという概念すらいらない。GUIやネットのソケットと相溶性のいいオブジェクト指向は、機械的で技術的な要請は全くいらない。あくまでクラスライブラリを仕様通り使いこなせればいいのだ。ただのプログラマ(コーダー)は一気に地に落ちた。仕様は抽象的に書けるつまり、モノづくりと一緒になる=請負なんだそして多重請負になり土方化する。

 私が高校の時に何か気に食わなかったことはこのことだったんだと、労働省で全く違う、労働法の特別司法警察員をしてそう思っていた。

 今日はここまで。